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卒業生は今

 

 

昭和57年卒業 久保(旧姓・松永)里香です。

 

現在、中野区議会議員として3期12年目を迎えました。(公明党議員団・幹事長) 一校時代は、政治の道を志すことになるとは、夢にも思っていませんでした。何しろ、決して、褒められる素行ではありませんでしたので、級友や先生方も、「まさか、あいつが?」と思われていることでしょう。そもそも私は実家の祖父が営んでいた細菌検査に関する製造販売業を継ぐという約束で、農大に進学する為に、一校に入学しました。が、お恥ずかしい話ですが、大学への推薦許可を失い、農大へは進学せず、卒業後は㈱グンゼに入社しました。その後、仕事をしながら、ディスプレイデザインを学び、㈱平和マネキンにデコレーターとして、転職。同じ職場に勤務する夫と22歳で結婚しました。結婚後は、2人の子どもを育てながら、専業主婦として、地域の様々な活動を行ないました。ちなみに私が継ぐことのできなかった会社は現在、夫が継承してくれています。

 

私にとって、子育てしながらの幼・小・中のPTA活動は、とても楽しいもので、その活動から区政への関心も高まっていったのかもしれません。子どもの遊ぶ公園では、時計やプールの庇を設置することを公明区議を通じ行政に要望し、小学校のPTA時代は「子ども110番」の推進を、中学校PTA時代は学校施設の改善要望をと、子どもを取り巻く環境改善に取り組みました。


長女の通う中学のPTA会長時代に、地元の区議が定年で引退されることになり、その後継者として、白羽の矢が立ち、出馬することになり、平成15年に初当選させて頂きました。
議員の仕事がどういったものか解らぬ私に、前任者の大先輩は「区議会の仕事は、ゴキブリから世界平和まで」と、その幅の広さを例えられました。当時は、ピンときませんでしたが、今は、言い得て妙だったなぁと感じます。
私の仕事に興味を持ってくださった方は、どうぞホームページをご覧下さい。

 

さて、話は私の生い立ちまでさかのぼります。
昭和38年12月練馬区で誕生、生まれて1年後に両親が離婚し、父方の祖父母に育てられました。父は、再婚離婚再婚離婚、借金しては行方知れずという人でしたので、ほとんど一緒に暮らしたことはありませんでした。母については、物心着いた時から、全く記憶はなく、顔も名前も知らずに育ちました。それでも、そう卑屈にならずに今日までこられたのは、ポジティブな祖母に育てられたからだと感謝しています。その祖母が、自宅で端唄を教えていたことから、私も小学生の頃から舞台で歌っておりまして、実は、人前で話すより歌うほうが好きかもしれません。

 

平成23年3月11日、忘れることの出来ない甚大な被害をもたらした東日本大震災が起こりました。この時、「野方で火災」との報道がテレビで取り上げられました。実は、これは誤報であったようですが、遠く海を渡り、このニュースはフランスでも流れました。 その年の11月、祖母のもとに一通のエアメールが届きました。「娘を育ててくださってありがとうございました。日本に帰国した際に、挨拶に伺わせてください」一人娘を日本に置いてきたことを糧にフランスでガイドの資格を取り頑張ってきた母からの手紙でした。母は、私がどこでどうしているのか調べていて、時々、日本に戻ってきては、私の家の近所を訪ねていたようです。「野方で火災」の報道に、日本は?中野は大丈夫なのか?娘は無事なのか?不安でたまらなくなり、泣きながら震災の報道を見ていたそうです。その姿に、母の再婚したご主人が「日本に会いに行ってきなさい。親子なんだもの会えばきっと心が通い会えるよ」と、母の背中を押してくれました。 かくして、私たち母娘は46年ぶりに再会を果たすことが出来ました。それからは、息子、私、娘が順番にフランスに行き、母も年に1度のペースで日本に来て、その度、家族で会い交流がスタートしました。 今日は、奇しくも3・11、中野で暮らす避難者の方々と東日本大震災の集いに参加します。 震災で尊い生命を失われた方々に哀悼の祈りを捧げ、復興を願って参ります。